新田相生文楽人形芝居
激動の幕末を経て迎えた明治時代、この地方でも転換期に暮らす人々は日々の生活不安から、刹那的な娯楽を求めて遊郭や賭博に手を出し、一夜にして山林や田畑を失うものも居ました。その頃の健全な娯楽といえば、毎年巡業でやってくる淡路の人形浄瑠璃芝居でした。人形使いが華やかな衣装を纏った人形を巧みに操り、音楽にのせて創る舞台は、村の人々を魅了していました。次第に、「人情」、「道徳」、そして人形使い・衣装・音楽・大道具・小道具で作り上げる人の「和」の三位一体の舞台を村の日常の娯楽として望むようになります。明治7(1874)年、村人は資金を出し合って人形を買い人形芝居の第一歩を踏み出しました。人形の動きは岡山の人形座に教えを請い、人形頭を研究し次々と制作、三味線は指導者について学び、衣装は村の女性達、大道具・小道具・舞台装置は村人が協力し合って作り上げました。こうして村ぐるみで人形芝居ができる環境を少しずつ整えていきます。明治・大正になると、村の人形芝居は隆盛をたどり、県内はもとより、お隣の岡山県からも招かれて公演するほどに成長しました。戦争中は、人手不足で活動を縮小しましたが、戦後になると、大阪文楽座公演、NHK鳥取に出演したり、有形民俗文化財の指定を受けたりと活動を再開しました。しかし、昭和40年代後半になると、集落人口の過疎化が急速に進み、村は担い手不足に陥り人形芝居の運営が困難になっていきます。演目も人手を要しない芸題を選ぶようになっていきました。それでも、平成7年3月には人形の練習と上演の場所として「人形浄瑠璃の館」が竣工。拠点の館ができた事から、村の住人が会員となり、人形の再興、村の振興、そして後継者の育成に取り組んでいます。